岡山後楽園築庭と庭園改造の年表
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池田綱政
(いけだつなまさ)(嘉永14年(1637)〜正徳4年(1714))
貞享4年(1687)12月築庭工事を始める(藩主綱政50歳)
元禄2年(1689)6月利用を開始する。
元禄10年(1697)還暦(60歳)を、後楽園内に『慈眼堂』を建立。
宝永4年(1707)古希(70歳)を迎え、後楽園内に『能舞台』を作り、領民に能を拝見さす。
正徳4年(1714)10月29日、綱政死亡。
 (宝永4年9月より正徳4年10月1日まで、150回の能の興行をする。)
池田継政
(いけだつぐまさ)(元禄13年(1700)〜安永5年(1776))
享保2年(1717)藩主継政、初めて岡山へ帰城。
享保7年(1722)藩主継政、仙台伊達家より正室を迎える。
享保8年(1723)栄光院(藩主継政の母)江戸より帰国。このころより庭園の改造を始める。 『唯心山』・御茶屋『唯心』など作られる。
享保17年(1732)10月頃より後楽園の記録『御後園諸事留帳』の記載が始まり、後楽園の 能舞台の再建工事が始められる。
元文2年(1737)10月5日、藩主継政、正室を離縁。
延享3年(1746)3月、藩主が江戸参府中、領民に後楽園の庭園拝見を開始する(この年8月23日、栄光院(継政の母)死亡)
宝暦2年(1752)藩主継政隠居し岡山城西の丸に住居。
安永5年(1776)2月死亡。
池田宗政
(いけだむねまさ)(享保12年(1727)〜明和1年(1764))
宝暦13年(1763)8月、藩の財政難により、大役人59人から20人へ減員する。庭園内の菜園の耕作が不可能になる。
 ((藩主継政・宗政の時代、後楽園の菜園では野菜・穀類・煙草など栽培される))
池田治政
(いけだはるまさ)(寛延3年(1750)から文政1年(1818))
天明元年(1781)5月、帰城後、後楽園の御茶屋で『茶の湯』の稽古が頻繁に行われる。
 ((藩主治政が、姫路藩主酒井家から正室米姫を迎えたことによる。裏千家家元千玄室、弟  子川上不白・速水宗達など招き、茶の稽古をする))
天明6年(1786)2月13日、庭園内に稲荷宮を勧請する。
寛政5年(1793)治政の正室米姫死亡。
寛政6年(1794)3月、治政隠居、江戸大崎屋敷で暮らし、文化7年()1810)岡山へ側室筆  野を伴い帰国する。文政元年(1818)12月死亡するまで、後楽園での生活を楽しむ。
池田斉政
(いけだなりまさ)(安永2年(1773)〜天保4年(1833))
文化12年(1815)2月27日、新御茶屋『寒翠細響軒』(かんすいさいきょうけん)できる。文化年間には、岡山城内や後楽園で『茶の湯』が藩主斉政、隠居治政により盛んに行われた。
 (文化年間(1804−1818)頃、茶の湯の記録が多い)
文政5年(1822)2月1日の初午の祭礼から、多くの領民が園内の稲荷宮へ参詣する。
 ((文政5年−1万3千人、文政7年(1824)−3万5千人、文政9年(1826)−5万3千人))
文政12年(1829)2月、藩主斉政隠居、薩摩藩島津家より養子の斉敏が藩主となる。
池田斉敏
(いけだなりとし)(文化8年(1811)〜天保13年(1842))
天保元年(1830)3月14日、薩摩藩主島津斉輿、参勤の途中に後楽園に立ち寄る。
天保4年(1833)藩主斉敏、後楽園内で『焼物窯』(北門を入った辺り)を作り、茶碗など作る。 伊部御細工人長十郎・新七郎」など七人手伝いに参る。
天保5年(1834)3月、『御庭拝見定日三ノ日之事』確認する。五月、寛彰院(かんしょういん)(池田斉敏の長男斉輝の室。一条家から嫁す)が岡山へ帰国。
天保10年(1839)正月4日、『御後園八景之図御筆物御額一枚』延養亭十畳敷の部屋へ掛 ける。
天保13年(1842)1月30日、藩主斉敏病死。4月14日、奥平家より養子慶政が藩主となる。 12月1日、江戸より丹頂鶴一番到着。
池田慶政
(いけだよしまさ)(文政6年(1823)〜明治26年(1893)
弘化元年(1844)後楽園の鶴十一羽、内二羽丹頂鶴
安政元年(1855)11月1日、後楽園内にて『調練』(軍事訓練)実施。
安政5年(1858)9月、疫病流行。10月21日寛影院死亡。
 ((寛影院が、岡山城内の女性をお供に後楽園での生活を楽しむ記録が多く残る))
文久3年(1863)2月8日、慶政隠居。水戸家よりの養子茂政藩主となる。
池田茂政
(いけだもちまさ)(天保10年(1839)〜明治32年(1899))
明治元年(1868)3月15日、茂政隠居。池田章政藩主となる。
池田章政
(いけだあきまさ)(天保7年(1836)〜明治36年(1903))
明治3年(1870)11月18日、後楽園を藩へ返す。
明治4年(1871)2月7日、後楽園と名称変更する。2月16日より御庭拝見始める。
明治5年(1872)4月22日、後楽園が池田家の私有物となり御庭拝見中止。
明治17年(1884)後楽園は池田家より岡山県に売却される。

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